アロイス・ブルンナー

アロイス・ブルンナー(Alois Brunner、1912年4月8日 - 2001年もしくは2010年?)は、ドイツのナチス親衛隊隊員。最終階級は親衛隊大尉

アドルフ・アイヒマンの副官だった人物で、アイヒマンとともにユダヤ人の大量移送に責任を負うが、ドイツの敗戦後シリア逃亡した。シリア政府は各国のブルンナー引き渡し要求に応じなかった。

生い立ちと戦中の戦争犯罪について

オーストリア・ハンガリー帝国ハンガリー王国)のナディクート(現在のブルゲンラント州ローアブルン(英語版))出身。19歳の時にフュルステンフェルト(英語版)オーストリア・ナチ党に入党。ブルンナーは周囲にグラーツ警察学校の出身であることを自慢していたが、そこにいたのは1932年10月から1933年1月の間のわずか3か月間だった。はじめ突撃隊(SA)隊員だったが、1938年のオーストリア併合を機にウィーンに移り、親衛隊(SS)に入隊した。

1939年にはウィーンにあったアドルフ・アイヒマンの「ユダヤ人移送局」に配属され、アイヒマンの補佐役として、主にユダヤ人追放にかかわり、時には殴打や拷問などを行なっていた[1][2]。1943年2月までにオーストリアのユダヤ人4万7000人を移送させた。これらの「功績」でブルンナーは一気に昇進し、1940年4月20日、総統誕生日を機に親衛隊少尉、同年11月9日に親衛隊中尉、1942年1月30日の政権奪取記念日に親衛隊大尉へと昇進している。

1943年2月からギリシャテッサロニキへ赴任。ブルンナーは同地のユダヤ人有力者25人を人質にとり、命令に従わぬ場合彼らを射殺するとユダヤ人社会を脅迫。テッサロニキとマケドニアにいる5万8000人のユダヤ人のうち4万4000人を移送させた。1943年6月からはパリに派遣され、ここでもユダヤ人2万7000人ほどを移送する。その後スロバキアに派遣され、1万4000人のユダヤ人を移送。続いてハンガリーへ派遣され、1万2000人を移送している。

戦時中のブルンナーは一貫してユダヤ人移送に従事し、戦場へ出されることは一度もなかった。

戦後のシリア逃亡について

ドイツ敗戦時、アロイス・ブルンナーは、ウィーンで逮捕され、裁判を経て1946年5月に処刑されたと思われていた[3]。しかし、実際には、アロイス・ブルンナーと名前の似ているゲシュタポ局員のアントン・ブルンナーという人物が処刑されていた[3]。(本物の)ブルンナーは、SS隊員が、施していた血液型の入れ墨もしていなかったため、SS隊員であることが露見せず、戦後は、「アロイス・シュマルディーンスト」という偽名を名乗り、一時は米軍基地の運転手をするなど一般社会に溶け込んでいた[2]。しかし、やがて、ブルンナーは戦犯として手配されることとなる[2]。1953年12月には、フランスで、ブルンナーは欠席裁判のまま、死刑判決を受けていた[4]。当時、ブルンナーは西ドイツの首都ボンに潜伏していた[4]。また、1953年には、西ドイツにおいても、ナチスの戦犯の裁判が始まり、ブルンナーは窮地に立たされていた[4]。こうして、ブルンナーは、自身と顔がよく似ている元SS高級将校のゲオルク・フィッシャーという人物のパスポートを盗み、エジプトへと逃亡した[4]。エジプトに逃亡したブルンナーであったが、同国では虐殺の専門家の居場所はなく、ほどなくシリアダマスカスへと逃亡した[5]

シリアに渡ったブルンナーは、同地で実業家から支援を受けて、事業を展開し、これがうまく行き、1957年にはダマスカスの高級住宅街に居宅を構えるようになる[6]。しかし、1959年になると、イスラエルの諜報機関モサドによるナチス戦犯の追跡が始まり、1961年1月には、ブルンナーのシリアでの所在地が特定されてしまう[7][8]。同年9月、モサドは小包爆弾によるブルンナー暗殺計画を実行に移した[9]。結果的には、ブルンナー暗殺は失敗に終わるが、ブルンナーは小包爆弾によって、左目を失明し、左腕、右目を負傷した[10][11]。ブルンナーの暗殺未遂事件を受けて、当時のシリア政府は、ブルンナーが死去したと虚偽の発表を行なった[9]。ブルンナーはシリア政府から治療を施された[10]。ブルンナーは、西ドイツに入国した場合、逮捕されることが確実であり、一方在シリアの西ドイツ大使館は(生きているなら)ブルンナーのシリア追放を訴えかけていたためであった[10]

その後、モサドからの暗殺は一時、沙汰闇となっていたが、1977年、イスラエルの新首相にメナヘム・ベギンが就任し、風向きが変わる[12]。ベギンは、ホロコーストを体験しており、モサドにナチス戦犯の捜索を行うよう依頼した[12]。これにより、モサドは再びブルンナーの暗殺計画を実行する。モサドは、ブルンナーが郵送で購読している雑誌を把握しており、その雑誌に爆弾を仕掛けることを思いつき、1980年7月1日、ブルンナーが購読している雑誌の郵送物を開封した瞬間、爆弾が炸裂した[12]。だが、火薬量が少なかったため、ブルンナーは指を数本失ったものの、無事だった[12]。こうして、モサドはブルンナーの殺害をあきらめた[12]。1985年10月には、ブルンナーは、ドイツの雑誌「ブンテ(英語版)」のインタビューに応じた[13]。また、1986年と1987年にもインタビューに応じて、ホロコーストに対しては反省の姿勢は見られなかった[14]

ブルンナーのインタビューを受けて、シリア政府は、対外的には、(ブルンナーの)死亡を発表していたことや、西ドイツの首相ないし大統領がシリアを訪れた際には、ブルンナーの消息について尋ねられるなどしたため、ブルンナーに対して行動制限をかけた[15]。なお、シリア政府は、西ドイツの政府要人からのブルンナーの消息照会や身柄引き渡しについては、一貫して当該人物はいないため、身柄を引き渡せないと回答していた[16]。西ドイツ政府は、ブルンナー逮捕につながる情報提供者には50万マルクを報奨金として渡すと宣言した[15]

ブルンナーは、ダマスカスに所在し、行動制限がかけられることとなった。旅行時に監視がつく程度だった行動制限は、次第に厳しくなり、自宅の外から鍵をかけられるなどされるようになっていた[17][18]。監視している警備員から危害を加えられることはなかったものの、かといってブルンナーを健康な状態にすることも望まれていなかった[18]。ブルンナーは、遂には自宅から連れ出され、シリアの秘密警察の地下独房で監禁され、食事は、軍のレーションを与えられたが、卵かジャガイモだけという食生活で、入浴も制限され、まともな医療も受けられずに、2001年に死去した[19][20]。ブルンナーの監視に当たった人物は、「動物にだってこんな扱いをすべきではないだろう。」と述べた[19]。死去した年については、2010年に死亡と推定する資料もある[21]

その他

  • 1987年7月に行われたオーストリアのホロコースト否定派、ゲルト・ホンシク(英: Gerd Honsik)が、ブルンナーに対して行なったインタビューでは、ブルンナーはヨーロッパからユダヤ人を追放して再定住させようとしていた。と回答している。また、「ガス室など知らない。」と答えた[22][23]

脚注

  1. ^ オルバフ, p. 120.
  2. ^ a b c オルバフ, p. 122.
  3. ^ a b オルバフ, p. 121.
  4. ^ a b c d オルバフ, pp. 124–125.
  5. ^ オルバフ, p. 125.
  6. ^ オルバフ, pp. 127–128.
  7. ^ オルバフ, p. 187.
  8. ^ オルバフ, p. 191.
  9. ^ a b オルバフ, p. 196-197.
  10. ^ a b c オルバフ, pp. 196–197.
  11. ^ 『イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史 上: 血塗られた諜報三機関』早川書房、2020年6月4日。 
  12. ^ a b c d e オルバフ, pp. 334–338.
  13. ^ オルバフ, p. 339.
  14. ^ オルバフ, pp. 340–341.
  15. ^ a b オルバフ, pp. 342–345.
  16. ^ オルバフ, p. 342-345.
  17. ^ オルバフ, p. 340-341.
  18. ^ a b オルバフ, p. 346-347.
  19. ^ a b オルバフ, p. 347.
  20. ^ “Nazi war criminal Alois Brunner died in Syria basement in 2001 – report”. The times of israel. (2017年1月11日). http://www.timesofisrael.com/nazi-war-criminal-alois-brunner-died-in-syria-basement-in-2001-report/ 
  21. ^ “「アイヒマンの右腕」死亡か=超大物ナチス戦犯-4年前シリアで”. 時事通信. (2014年12月2日). オリジナルの2014年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20141202071622/http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014120200927 
  22. ^ Alois Brunner and the “I Would Do It All Again” Lie
  23. ^ Alois Brunner Talks about His Past

関連項目

参考文献

外部リンク

  • Alois Brunner and the “I Would Do It All Again” Lie
  • Alois Brunner Talks about His Past
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