オットー・ザルツァー

オットー・ザルツァー
Otto Salzer
ザルツァー(1914年フランスグランプリ)
基本情報
国籍 ヴュルテンベルク王国の旗 ヴュルテンベルク王国ドイツの旗 ドイツ帝国) → ドイツの旗 ドイツ国ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
生年月日 (1874-04-04) 1874年4月4日
出身地 ドイツの旗 ドイツ帝国
ヴュルテンベルク王国の旗 ヴュルテンベルク王国 メークリンゲン
死没日 (1944-01-07) 1944年1月7日(69歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
シュツットガルト オーバーテュルクハイム(ドイツ語版)

オットー・ザルツァーOtto Salzer1874年4月4日 - 1944年1月7日)は、1900年代から1920年のドイツのレーシングドライバーである。ダイムラー社(英語版)(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)のワークスドライバーとして知られる。

経歴

1896年10月5日に錠前職人としてダイムラー社(Daimler-Motoren-Gesellschaft、DMG)に入社[W 1][W 2]

1900年1月1日から、レーシングカーと乗用車の組立部門の担当となり[W 1]、それらの組み立てやテストを担当するようになる[W 2]

当時は自動車の運転教習所運転免許試験のようなものはなく、ザルツァーは仕事の傍ら、独学で運転を学んだ[W 2]。ザルツァーはゴットリープ・ダイムラーの個人的な移動のために運転手を務めることが多かったため、しばしば彼と同道した[W 2]

トラックと馬車の長距離旅行(1898年)

1898年、ダイムラー社は自動車が馬車に対して優位性を持つことを証明するため、ダイムラー社が所在するカンシュタット(英語版)からベルリンまで、トラックと馬車で8日間に渡る長距離旅行を行うことを企画する[W 2]。ザルツァーはこのトラックのドライバーの運転を務めた[W 2]

馬たちは3日目には全頭が疲労困憊して動けなくなり、ザルツァーのトラックはその後もずっと走り続け、ザルツァーのみがゴールのベルリンに到達した[W 2]。このことは、自動車が馬車よりも優れていることを証明するひとつの事例となった[W 2]

レーシングドライバー

1900年にヴィルヘルム・マイバッハパウル・ダイムラーメルセデス・35HP(英語版)を開発し、ザルツァーはこの組立や試走も担当した[W 2]カミーユ・ジェナッツィのような社外のドライバーたちに操作方法をレクチャーするのもザルツァーの役割となり、そうしている内にザルツァーは自身もレースに出たいと考えるようになった[W 2]

ダイムラーの首脳陣はザルツァーの希望に難色を示し、現在の仕事を続けるなら給与を増額するとまで言って反対した[W 2]。しかし、ザルツァーの決意は固かったためダイムラー側が譲歩し、会社を去られることになるよりはよいという判断が下り、ダイムラー社はザルツァーをワークスドライバーに加えた[W 2]

こうして、1906年にベルギーで開催されたアルデンヌレースでデビューし、メルセデスチームの最初期のメンバーとなった[W 1]。翌1907年には第2回フランスグランプリ(英語版)に参戦し、これによりメルセデスでグランプリレースに参戦した最初のドイツ人ドライバーとなる。

1922年タルガ・フローリオでスーパーチャージャー搭載メルセデスを駆るザルツァー。

その後、当時のドライバーとしては長期に渡って活躍し、1906年から引退する1924年まで、20年近くに渡ってダイムラー社のワークスドライバーを務めた。

この間、チームのエースとして頭角を現していくのは1906年アルデンヌのレースでザルツァーのコドライバー(ライディングメカニック)を務めていたクリスティアン・ラウテンシュラガーだったが、ザルツァー自身も1914年フランスグランプリ(英語版)[注釈 1]1922年タルガ・フローリオ(ドイツ語版)[注釈 2]といった、ダイムラーにとって転機となるレースで重要な役割を担った[W 2]

ドライバー引退後

レーシングドライバーとして引退した後も同社に留まり、市販車やレーシングカーのテスト走行や開発に貢献した。

1940年に引退し、1944年にオーバーテュルクハイムの自宅で死去した。

レース戦績

インディアナポリス500

シャシー エンジン スタート フィニッシュ
1923年(英語版) メルセデス メルセデス 20 8

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ メルセデスチームがプジョーチームに勝利し、1-2-3フィニッシュを達成した。ザルツァーは3位でチェッカーを受けた。
  2. ^ スーパーチャージャーを初めて搭載したメルセデスが参戦した。

出典

ウェブサイト
  1. ^ a b c “Salzer, Otto” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Otto Salzer. “Aus den Erinnerungen eines aus Möglingen stammenden Rennfahrers” (英語). Heimatverein Möglingen e.V. 2021年6月28日閲覧。

外部リンク

  • Otto Salzer - Mercedes-Benz Public Archive (英語)
モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ(1894年 - 1939年)
メルセデス・ベンツ
(1926年 - 1939年)
主な関係者


主なドライバー
グランプリカー
  • W25 (1934年 - 1936年)
  • W125 (1937年)
  • W154 (1938年 - 1939年)
  • W165 (1939年)
スポーツカー
速度記録車
関連組織 / 用語
メルセデス
(1894年 - 1925年)
主な関係者


主なドライバー
車両
  • 35PS(英語版) (1901年)
  • 18/100PS (1914年)
関連組織
  • ダイムラー・モトーレン(英語版) (DMG)
ベンツ
(1894年 - 1925年)
主な関係者
主なドライバー
車両
関連組織
  • ベンツ(ドイツ語版)
※1894年から1939年の期間、上掲の国旗の多くは政治体制の変遷に伴って(複数回)変更されている。上掲の国旗は国籍を示すことのみを目的にしているため、見た目の煩雑さを避ける便宜上、2021年現在の国旗を使用している。
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