ダヴィト2世 (カトリコス総主教)

ダヴィト2世
ジョージアのカトリコス総主教(英語版)
現地語名 დავით II
教会 ジョージア正教会
着座 1425/26年
離任 1428年
前任 ミケル4世(グルジア語版)
後任 テオドレ3世(グルジア語版)
個人情報
本名 დავით ბაგრატიონი[1]
出生 1417年頃[2]
死去 1457年頃[2]
両親
  • アレクサンドレ1世
  • タマル(フランス語版)
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ダヴィト2世(ダヴィト2せい、グルジア語: დავით II)、グルジア語ラテン翻字: Davit II、1417年頃[2] – 1457年頃[2])は、15世紀のジョージアのカトリコス総主教(英語版)(在位1425/26年–1428年)。ジョージア王アレクサンドレ1世の四男であり、母親はイメレティ王アレクサンドレ1世の娘タマル(フランス語版)である。

名前と序数

ダヴィト2世はダヴィト3世とも呼ばれ、歴史家によって序数のつけ方が異なる。また同じ15世紀のカトリコス総主教ダヴィト3世/4世(グルジア語版)(在位1435/36年–1438/39年)とダヴィト4世/5世(グルジア語版)(在位1443/47年–1459年)について、同一人物かどうかについても学術的見解が分かれている。

歴史家のミヘイル・タマラシヴィリ(グルジア語版)[3]ロイン・メトレヴェリ(グルジア語版)[4]がジョージアの高位聖職者に関する伝統的なリストをまとめた際、在位1425/26年–1428年、在位1435/36年–1438/39年、在位1443/47年–1459年のダヴィトをそれぞれ異なる人物として序数をつけており、ジョージア正教会もこの考え方を受け入れている[5]。他方、ロシアの歴史家キリル・トゥマノフは、在位1425/26年–1428年、在位1435/36年–1438/39年、在位1443/47年–1459年のダヴィトをすべて同じ人物であると考察しており、これらはすべてジョージア王アレクサンドレ1世の四男であるとの見解を示している[3]

序数のつけ方の差異については、9世紀に存在したダヴィト(在位859年–861年)が実際に在位したかどうかについて、歴史家の間で見解が分かれているためである。例えば歴史家ミヘイル・タマラシヴィリは、9世紀のダヴィトをカトリコスのリストから除外しており[3]10世紀のダヴィト(グルジア語版)(在位947年–955年)をダヴィト1世として扱っている[2]

生涯

歴史家バビリナ・ロミナゼ(グルジア語版)の研究では、ダヴィトは1417年または1419年に、父親のジョージア王アレクサンドレ1世の指示によりムツヘタ修道士となった[6]。そして当時のカトリコス総主教ミケル6世(グルジア語版)は、アレクサンドレ1世から命を受け、ダヴィトを次期総主教として準備し、祝福した。1426年にアレクサンドレ1世がゼドゲニゼ家(グルジア語版)に宛てた手紙では、ダヴィトはすでにカルトリのカトルコスとして言及されている。また1428年にサガレジョ(グルジア語版)に寄贈した文書でも、同様の言及があった[7]。ダヴィト2世は王室の一員として、アレクサンドレ1世の忠実な僕であり、外敵からの攻撃を受けた国の復興に参加した[6]

1949年から1951年にかけてロシアの歴史家キリル・トゥマノフが発表した研究よると、ダヴィトの誕生は1417年頃とされる[8]。幼少期、父親のジョージア王アレクサンドレ1世よって教会で暮らすことを定められ、1426年にカトリコスに指名された。そしてトゥマノフの研究では、ダヴィトは1457年頃に死去するまでカトリコスの座に就いていたとされる。またトゥマノフは、同時代に存在したとされるテオドレ3世(グルジア語版)(在位1427年–1434年)とシオ2世(グルジア語版)(在位1440年–1446年)について、ともにカトリコスの称号をもつ総主教代行であったとしている。これはダヴィトがとても若く、またジョージア教会の最高位を継承する以前であったためであるとされる。ダヴィトはその後、1447年頃にジョージア教会の最高位を継承したとされる[2]

歴史家キリル・トゥマノフによる1990年の発表では、ダヴィトは1417年に誕生後、15歳の頃に司祭に叙階[1]。1435年、18歳のときにテオドレ3世(グルジア語版)の後を継いでジョージア正教会のカトリコス総主教となった。しかし若年であったため1439年に退位させられ、シオ2世(グルジア語版)に替わられた。シオ2世の死後、ダヴィトは再びジョージアの総主教として呼び戻され、1459年に死去するまで総主教をつとめた[1]

系譜

ダヴィト2世の系譜
ダヴィト9世(グルジア語版)
バグラト5世(グルジア語版)
シンドゥフタル・ジャケリ
コンスタンティネ1世
アレクシオス3世メガス・コムネノス(グルジア語版)
アンナ・メガレ・コムニニ(グルジア語版)
テオドラ・カンタクゼネ(英語版)
アレクサンドレ1世
クツナ・アミレジビ(グルジア語版)
ナティア
ルサ
ダヴィト2世
ミケリ(グルジア語版)
バグラト1世
アレクサンドレ1世
クヴァルクヴァレ1世(グルジア語版)
(wikidata)
タマル(フランス語版)
ペルギニ・オルベリアニ
アナ・オルベリアニ(wikidata)

注釈

  1. ^ a b c Toumanoff 1990, pp. 139–140.
  2. ^ a b c d e f Toumanoff 1949–51, pp. 189–190.
  3. ^ a b c Toumanoff 1949–51, p. 190.
  4. ^ Metreveli 2000, p. 72.
  5. ^ “Leaders of Georgian Church”. Patriarchate of Georgia. 15 December 2012閲覧。
  6. ^ a b Lominadze 1978, pp. 340.
  7. ^ ბ. ლომინაძე, XV საუკუნის საქართველოს ქრონოლოგიიდან, კავკასიის ხალხთა ისტორიის საკითხები, თბილისი, 1966.
  8. ^ Toumanoff 1949–51, pp. 189.

参考文献

外部リンク

  • დავით II - georgianencyclopedia.ge