パーヴェル・バタショフ
パーヴェル・ヴァシリエヴィチ・バタショフ Павел Васильевич Баташов | |
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生年月日 | (1886-06-26) 1886年6月26日 |
出生地 | ロシア帝国トゥーラ県(ロシア語版)トゥーラ郡トゥーラ |
没年月日 | 1971年(84 - 85歳没) |
前職 | 機械工など |
所属政党 | (メンシェヴィキ→) (ボリシェヴィキ→) ソビエト連邦共産党 |
称号 | 1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章(ロシア語版)[1] |
在任期間 | 1923年12月 - 1924年 |
ウラル州ソビエト執行委員会副議長 | |
在任期間 | 1928年1月 - 1929年5月 |
在任期間 | 1930年8月 - 1931年8月 |
全連邦共産党(ボ)ジェルジンスク市委員会 責任書記・第一書記 | |
在任期間 | 1931年10月 - 1937年11月 |
ジェルジンスク市ソビエト執行委員会議長 | |
在任期間 | 1937年11月 - 1938年5月 |
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パーヴェル・ヴァシリエヴィチ・バタショフ(バタシェフ)(ロシア語: Павел Васильевич Баташов (Баташев)、1886年6月26日 - 1971年)は、ロシアの革命家・ソビエト連邦の政治家。
生涯
前半生
1886年6月26日、ロシア帝国トゥーラ県(ロシア語版)トゥーラの労働者階級に生まれた[2]。1899年まで4年制学校に通い、同年から1903年1月までは配管工、同月からは機械工として働き[3]、1905年末にロシア社会民主労働党に入党[2]。翌1906年初頭には図書館員となり、また年内にはトゥーラ金属労働者組合にメンシェヴィキとして加入した[2]。1907年から1911年までハバロフスクで[4]従軍し、復員後の同年末に金属労組理事会メンバーとなった[2]。1912年にボリシェヴィキへ移り、同年10月には逮捕されて1か月服役[2]。1914年4月には党トゥーラ委員会メンバーに選出され、同年6月にはサンクトペテルブルクの「ヴルカン」工場に機械工として入った[2]。翌1915年10月から1916年4月までは「ガマユク」気球工場で勤務[3]。同月には革命活動により再逮捕され、9月には前線へ送られたが、軍務不適としてペルミ県のルィシヴァ(ロシア語版)冶金工場 (ru) へ送られた[2]。
革命期
工場でも宣伝活動を行い、1917年2月にはルィシヴァ・ソビエトの最初の代議員に選出された[2]。翌3月から5月まではソビエト書記、5月から翌1918年4月までは議長[5]、同年3月から翌1919年1月までは副議長も務め、同月から3月まではウファ郡(ロシア語版)軍事委員、同月から翌1920年1月まではウファ県(ロシア語版)委員補および党県委およびウファ市委メンバーにも就いている[4]。
他方1918年には赤衛隊(ロシア語版)参謀部に加わり[2]、4月から12月までルィシヴァ軍事委員(ロシア語版)、翌1919年1月から11月まで郡軍事委員、同月から翌1920年4月までエニセイスク県(ロシア語版)軍事委員補を歴任[5]。ルィシヴァの軍事革命参謀部を指導した[2]。
後半生
翌5月から1922年6月までは党ルィシヴァ地区委責任書記、同月から翌1923年4月まではペルミ県委組織部部長、同月から11月まではエカテリンブルク郡(ロシア語版)委責任書記を務め[5]、同年4月には党中央委ウラル局メンバー候補として承認された[2]。12月から翌1924年まで党ウラル州(ロシア語版)委第二書記、同年から翌1925年までスヴェルドロフスク管区 (ru) 委責任書記、同年8月から10月まで州ソビエト執行委幹部会書記[4]、同月から1927年12月までチェリャビンスク管区 (ru) 委責任書記を歴任し、1925年12月31日から1927年12月19日までは中央統制委(ロシア語版)メンバーでもあった[5]。翌1928年1月から1929年5月までウラル州ソビエト執行委副議長、同月から1930年8月まで党サラプル管区 (ru) 委責任書記、同月から翌1931年8月までペルミ市委責任書記、同年10月から1937年11月までジェルジンスク市委責任・第一書記、同月から翌1938年5月まで同市ソビエト執行委議長も務めた[5]。
第2回(ロシア語版)から第8回 (ru) までの全ロシア・ソビエト大会(ロシア語版)、第14回(ロシア語版)から第17回(ロシア語版)までの党大会や[3]、第15回と第16回 (ru) の党会議 (ru) にも出席[4]。『プロレタルスコエ・ズナーミャ』紙編集者やコムバンク・ソビエト議長にも就いたが[4]、1938年10月から1940年2月までは「人民の敵(ロシア語版)との接触」を理由に[1]ゴーリキー市刑務所に収監された[3]。1942年から1945年まではジェルジンスク避難病院で宣伝活動に従事し、その後1971年に死去した[1]。
脚注
- ^ a b c “БАТАШОВ ПАВЕЛ ВАСИЛЬЕВИЧ”. Дзержинск-1930.ru. 2018年9月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “Баташов Павел Васильевич”. Пермский государственный архив социально-политической истории. 2018年9月11日閲覧。
- ^ a b c d “Баташев Павел Васильевич”. Пермский государственный архив социально-политической истории. 2018年9月11日閲覧。
- ^ a b c d e “Баташев Павел Васильевич”. Энциклопедия Челябинской области. 2018年9月11日閲覧。
- ^ a b c d e “Баташов Павел Васильевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年9月11日閲覧。
党職 | ||
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先代 なし | ロシア共産党(ボ)ウラル州委員会第二書記 1923年12月 - 1924年 | 次代 イヴァン・ルミャンツェフ(ロシア語版) |
先代 コンスタンチン・ゲイ エカテリンブルク管区 | ロシア共産党(ボ)スヴェルドロフスク管区委員会責任書記 1924年 - 1925年 | 次代 イヴァン・ルミャンツェフ 全連邦共産党 |
先代 アンドリアン・プリレフスキー | ロシア共産党(ボ)チェリャビンスク管区委員会責任書記 1925年12月から全連邦共産党 1925年10月 - 1927年12月 | 次代 パーヴェル・チウノフ |
先代 G・E・モロゾフ | 全連邦共産党(ボ)サラプル管区委員会責任書記 1929年5月 - 1930年8月 | 次代 なし |