フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクール

チャールズ・ウィルソン・ピールによる肖像画、1794年と1797年の間。

リアンクール領主および第7代ラ・ロシュフーコー公爵(英語版)フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコーFrançois Alexandre Frédéric de La Rochefoucauld, seigneur de Liancourt et 7e duc de La Rochefoucauld1747年1月11日1827年3月27日)は、フランス王国の貴族、廷臣。バスティーユ襲撃を国王ルイ16世に報告する際の言葉「いいえ、陛下。革命でございます」で知られる[1]。社会改革を推進したことで知られ、教育学者ジョセフ・ランカスターの理論に基づく学校の再編[2]ワクチン接種の推進[1]といった功績がある。

生涯

デスティサック公爵フランソワ・アルマン・ド・ラ・ロシュフーコー(François Armand de La Rochefoucauld, duc d’Estissac)の息子として、1747年1月11日にラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)で生まれた[1]。父は40万フランを支払って王室衣裳寮長官に就任した人物だった[1]騎銃兵(英語版)隊の士官になり、17歳で結婚した[1]。もっとも、ラ・ロシュフーコーは陸軍より農業に興味を持った[2]

ルイ15世の晩年にルネ=ニコラ・ド・モプー(英語版)率いる政府に反対し、ルイ16世が重用した経済学者を支持したことでルイ16世に起用された[2]

イングランドに訪れたことがあり、そのときの見聞を元にイングランドやスイスから畜牛を輸入し、リアンクール(英語版)の領地で農園を開設した[1]。このほかに領地で紡績工場を設け、兵士の息子向けの工芸学校を開設した[1]。この工芸学校は1788年に王家の庇護を受け、フランス国立高等工芸学校へと発展した[1]

1789年三部会(英語版)で第一身分の議員に選出され、王家を擁護しつつ社会改革を進めようとしたが失敗に終わった[1][2]。1789年7月14日のバスティーユ襲撃の後、その夜にパリの情勢について国王ルイ16世に警告しようとし、ルイ16世から「反乱か」と聞かれたところ、「いいえ、陛下。革命でございます」(Non, sire, c’est une révolution.)と返答したという[1][2]。その数日後に憲法制定国民議会議長に選出されたが、1か月を満たずに退任した[1][2]。10月5日から6日にかけてルイ16世がヴェルサイユ宮殿からパリに向かったときはルイ16世に同伴した[2]

1792年にフランス北部のノルマンディー師団の指揮官になり、ルーアンでルイ16世を保護しようとして失敗したが、その代わりとしてルイ16世に多額の資金を提供した[1][2]。同年の8月10日事件を経てイングランドに逃亡し、農学者アーサー・ヤング(英語版)のもとを訪れた[1]。9月14日にいとこにあたる第6代ラ・ロシュフーコー公爵(英語版)ルイ・アレクサンドル・ド・ラ・ロシュフーコー(英語版)ウール県ギゾル(英語版)で暗殺されると、ラ・ロシュフーコー公爵位を継承した[1]。1794年にアメリカ合衆国に逃れ、1799年のブリュメール18日のクーデターの後はナポレオン・ボナパルトの許可を受けてリアンクールの領地を取り戻した[2]。しかしそれ以外ではナポレオンにほとんど顧みられなかった[1]

1815年のフランス復古王政で貴族院議員に就任したが、国王ルイ18世はラ・ロシュフーコー公爵の王室衣裳寮長官への復帰を拒否した[1]

アシル・ドゥヴェリアによる肖像画。公爵の死後の1836年に描かれた。

このときには領地で設立した工芸学校がシャロン=アン=シャンパーニュに移っていたが、ラ・ロシュフーコー公爵は帰国後より務めていた工芸学校の監察官に留任、貴族院で政府に反対したことで1823年に解任されるまで務め続けた[1]。このほか、フランスにおけるワクチン接種を推進して診療所を開設したが、これも1823年に無に帰した[1]。フランス科学アカデミーは抗議としてラ・ロシュフーコー公爵を会員に選出したが、政府から敵対される状態は続いた[1]。1827年3月27日にパリで死去した[2]

評価

1913年の『カトリック百科事典』はラ・ロシュフーコー公爵を「フランス革命のフランクリン」と評し、貴族でありながら自由主義的とした[2]。功績としては病院の衛生状況の改善、ジョセフ・ランカスターの理論に基づく学校の再編[2]ワクチン接種の推進[1]が挙げられる。

家族

息子を3人もうけた。

  • フランソワ(英語版)(1765年 – 1848年) - 第8代ラ・ロシュフーコー公爵。父の後を継いで貴族院議員となった[1]
  • アレクサンドル=フランソワ(フランス語版)(1767年 – 1841年) - ラ・ロシュフーコー伯爵。1805年に在ウィーン大使、1808年から1810年まで在デン・ハーグ大使を務めた。1822年に代議院議員に選出された[1]
  • フレデリック・ガエタン(英語版)(1779年 – 1863年) - ラ・ロシュフーコー=リアンクール侯爵。立憲君主制を支持したが、1848年革命以降は政界から引退した。父の著作やコンドルセ侯爵の回想録を編集し、自身も社会問題に関する著作を発表した[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Chisholm, Hugh, ed. (1911). "La Rochefoucauld-Liancourt, François Alexandre Frédéric, Duc de" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 221.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Herbermann, Charles, ed. (1910). "The Duke of La Rochefoucauld-Liancourt" . Catholic Encyclopedia. Vol. 9. New York: Robert Appleton Company. p. 5.

外部リンク

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