久保一秋
久保一秋 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮崎県 |
生年月日 | (1949-01-09) 1949年1月9日(75歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 栗東・吉永猛(1970 - 1983) |
初免許年 | 1970年3月1日 |
免許区分 | 平地(初期には障害免許も保持) |
騎手引退日 | 1983年2月20日 |
重賞勝利 | 6勝 |
通算勝利 | 225勝 |
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久保 一秋(くぼ かずあき、1949年1月9日 - )は、宮崎県出身の元騎手。
経歴
1970年3月1日に栗東・吉永猛厩舎からデビューし、京都第2競走4歳未勝利・ハイパール(10頭中7着)で初騎乗を果たす。5月2日の阪神第2競走4歳未勝利・アラーで初勝利を挙げ、1年目の同年は障害でも唯一の勝ち星を挙げるなど18勝をマークし、関西の新人賞に当たる関西放送記者クラブ賞を受賞[要出典]。
同年から1977年まで8年連続2桁勝利を記録し、2年目の1971年には自己最多の23勝をマーク。3年目の1972年からは平地の騎乗に専念し、南関東・大井から移籍してきたワイエムチャイナの主戦騎手となる。小倉記念で人馬共に初の重賞制覇を果たし、師匠・吉永にも初の重賞タイトルをもたらす。同年と1973年も23勝を挙げ、1974年にはラッキーオイチでビクトリアカップをトウコウエルザの3着とし、暮れの阪神牝馬特別で自身2年ぶりの重賞制覇。ハクサンホマレでは金杯(西)でナオキの3着、小倉大賞典・関屋記念でノボルトウコウの2着、愛知杯でシルバーランドの2着とする[要出典]。
1975年にはハクサンホマレで金杯(西)を逃げ切り、タマモヒカリで毎日杯3着に入る。1976年にはイコマエイカンの初仔であるグレイトファイターで小倉大賞典を制覇し、桜花賞では2番仔のクインリマンドでテイタニヤの2着に入る。札幌記念ではタマモヒカリに騎乗し、グレートセイカン・トウショウボーイから8馬身離されたものの、クライムカイザーにアタマ差迫る4着と健闘[要出典]。
1978年には3番仔のタマモリマンドで8頭中8番人気のきさらぎ賞をインターグシケンの3着と好走し、続く毎日杯も3着に入る。イセテンリュウでは京都4歳特別2着・CBC賞3着、1979年には金杯(西)でインターグシケンの3着に入る[要出典]。
1978年は9勝と初めて2桁に届かず、重賞勝ちも4年連続でストップ。1979年は20勝を挙げ、秋の京阪杯ではタマモリマンドでグレートタイタン・ハシコトブキ・ヤマニンバリメラを抑えて人気に応える[要出典]。
23勝を挙げた1981年にはホクトマツシマで第1回小倉3歳ステークスを制すが、2桁勝利と重賞勝ちは同年が最後となった[要出典]。
1983年は2月19日の京都第3競走4歳未勝利・トミウエーが最後の勝利となり、翌20日の京都第7競走4歳400万下・イセホオズキ(15頭中10着)が最後の騎乗となった。同年引退[要出典]。
騎手成績
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 224 | 236 | 211 | 1609 | 2280 | .098 | .202 |
障害 | 1 | 0 | 0 | 4 | 5 | .200 | .200 |
計 | 225 | 236 | 211 | 1614 | 2285 | .098 | .202 |
主な騎乗馬
- ワイエムチャイナ(1972年小倉記念)
- ラッキーオイチ(1974年阪神牝馬特別)
- ハクサンホマレ(1975年金杯 (西))
- グレイトファイター(1976年小倉大賞典)
- タマモリマンド(1979年京阪杯)
- ホクトマツシマ(1981年小倉3歳ステークス)
- その他
- イコマエイカン
- リキエイカン