井上春忠

 
凡例
井上春忠
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 井上春忠→井上伯耆入道紹忍(号)
別名 通称:弥四郎→又右衛門尉
略称:井又、井又右
官位 伯耆守受領名
主君 毛利元就小早川隆景毛利輝元加藤嘉明
長州藩伊予松山藩
氏族 清和源氏頼季井上氏
父母 父:井上資明
養父:井上俊秀
兄弟 春忠、光良
景貞、宗右衛門、七郎右衛門、女(粟屋盛忠室)
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井上 春忠(いのうえ はるただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏小早川氏の家臣。父は諸説あるが、『閥閲録』巻52「井上源三郎」に収録された家譜に拠ると井上資明。養父は井上俊秀安芸井上氏信濃源氏の流れを汲むとされる信濃井上氏の同族。

生涯

天文19年(1550年)に井上元兼ら一族の多くが粛清された際には、難を免れている。

翌天文20年(1551年)、毛利元就の三男で、竹原小早川氏当主小早川隆景沼田小早川氏を相続した際、その側近として隆景を支え活躍した。小早川家文書にある正月の座配立書には永禄11年(1568年)に上座から8番目に記され、一門と同様に「殿」の敬称が付記されている。

天文22年(1553年)、大内方から離反した江田隆連の居城・旗返城の支城である高杉城攻めで隆景に従って出陣しており、7月23日の城攻めで城将の祝甲斐守・治部大輔父子が戦死して高杉城は陥落した[1]が、この時の戦いで春忠は敵将の馬屋原右衛門尉を討ち取り、隆景から感状を与えられた[2]

天文24年(1555年)、陶晴賢に味方した野間隆実矢野城攻略に従軍し、4月11日の出城の明神山砦攻略で吉川元春配下の森脇春方と共に明神山への一番乗りを果たし、敵兵の首級を得た[3]。また、同年10月1日の厳島の戦いにおいても陶軍の敵兵の首級1つを挙げている[4]

永禄4年(1561年)3月、毛利元就・隆元父子らが小早川隆景の居城である新高山城を訪問した際、3月27日に元就は春忠の屋敷に宿泊し、隆景相伴のもと春忠の饗応を受けている[5]

同年10月26日、大友軍が豊前国門司城を攻撃すると、小早川隆景が門司城の城兵を率いて迎え撃ち、海上の児玉就方が率いる毛利水軍の援護を受けて大友軍を撃退した[6]。この時の戦いで春忠も戦功を立てている[6]

永禄5年(1562年)、毛利元就から本城常光の誅殺を命じられた吉川元春は久利盛勝、粟屋春由、二宮俊実、森脇春方らを派遣して、11月5日払暁に本城常光の陣所を襲撃[7]。本陣に突入した二宮俊実が本城常光と格闘して組み伏せ首を搔こうとした際に小早川隆景配下の兵が到着し、本城常光を討ち取ろうと押し寄せて二宮俊実の刀を打ち落としてしまったため、二宮俊実は折しも到着した春忠に対し、本城常光の首級は春忠に渡すので押し寄せる小早川兵を引かせてほしいと要望した[7]。春忠は二宮俊実の要望を受け入れて兵を引かせ、本城常光は二宮俊実によって討ち取られた[7]。本城常光の首級を受け取った春忠は、元就による首実検に本城常光の首級を供えた[7]

永禄8年(1563年)4月17日、毛利軍による尼子氏の本拠・月山富田城に対する総攻撃において、春忠を含む小早川隆景の軍は菅谷口で尼子秀久本田家吉の軍と交戦し勝利した[8]。4月28日に元就は持久戦へと転じるために全軍に退却を命じ、小早川軍が殿軍を務めることとなったが、毛利軍の動向を察知して追撃を行った一部の尼子軍に対して春忠が真っ先に迎え撃ち、原弥四郎を討ち取った[9]

同年8月から10月にかけて尼子方の出雲白鹿城攻めに加わり、10月に城主の松田誠保が降伏を申し出ると、松田誠保配下の平野又右衛門を人質としてとる一方、白鹿城兵の希望により降伏が完了するまで、春忠が白鹿城に入城することとなった[10]

永禄9年(1564年)4月21日から毛利軍は月山富田城の攻撃を行うもなかなか城を攻め落とすことが出来ず、帰陣の際に城麓の出雲国能義郡中須において尼子軍の追撃を受けて苦戦したが、春忠が応戦して尼子軍の福間与一左衛門を討ち取る武功を挙げ、尼子軍の追撃を遁れることに成功した[11]

永禄12年(1569年)8月19日付けで朝山日乗織田氏の動向等を報じる書状の宛名の一人に春忠が含まれている[注釈 1][12]

同年、小早川隆景に従って北九州で大友軍と戦っていたが、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘周防国侵攻(大内輝弘の乱)により、10月15日夜に毛利軍主力は大内輝弘討伐のため立花山城から撤退を開始[13]。撤退に当たっては春忠が終始並々ならぬ努力を払い、大友軍による追撃を防いだ[13]

元亀元年(1570年)、尼子再興軍の米原綱寛が守る高瀬城の攻撃することとなったが、高瀬城の守りが堅固であったことから毛利輝元は強襲を避け、高瀬城内が兵糧の欠乏で苦しむのを待つ持久策を取るために7月27日に稲薙を行った[14]。稲薙が一段落し、毛利軍が撤退する際に高瀬城の尼子軍が追撃してきたが、小早川軍に属する春忠が応戦し、撃退した[14]

元亀2年(1571年)6月14日に毛利元就が死去すると、毛利家中において人心は動揺し、様々な流言雑説が流れており、その一例として毛利輝元に対し赤川元房のことを讒言する者がいた[15]。赤川元房は輝元に釈明する前にまず春忠に内々に相談したが、相談を受けた春忠からそのことを上申された隆景は元亀3年(1572年)閏1月29日に赤川元房に書状を送り、「そのようなつまらない雑説を取り上げて輝元に釈明すればかえって事を荒立てる恐れがある。なおも雑説を申す者がいればいつでも春忠を遣わすので、夜中であってもお知らせ願いたい」と伝えた[16]。その後、赤川元房についての雑説を知った輝元は密かに元房に対して懇ろに言葉をかけ、赤川元房についての噂は静まったため、同年2月6日に隆景は赤川元房に書状を送り、事態が収束したことについて慶賀の辞を述べている[17]

天正4年(1576年)、石山本願寺から兵糧補給要請を受けた毛利輝元は、乃美宗勝児玉就英を主将とし[18]、その他に福間元明、井上春忠、村上元吉村上吉充ら安芸・備後・伊予の水軍に700~800艘の警固船を率いて東航させ、同年6月には淡路国津名郡岩屋を占拠して十分に準備を整えた後の7月12日に岩屋を出発し、和泉国和泉郡貝塚雑賀衆と合流し、翌7月13日にや住吉を経て木津川口において織田氏配下の水軍と激突[19]焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により織田水軍は壊滅し、無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功した(第一次木津川口の戦い[20]足利義昭は毛利方の勝利を「西国移座始勝利」として、同年10月15日に輝元と隆景を通じて乃美宗勝、児玉就英、井上春忠の木津川口における戦功を賞した[21][22]

天正11年(1583年)、毛利氏と織田氏との領境決定のために、羽柴秀吉蜂須賀正勝黒田孝高備前国岡山に派遣し、一方の毛利氏では、毛利輝元が渡辺長児玉元良を、吉川元春児玉春種を、そして小早川隆景は春忠を岡山に派遣して共同で交渉に当たらせている[23]

天正13年(1585年)、主君・隆景が羽柴秀吉に謁見するため上洛した際は随伴した。

天正14年(1586年)からの九州平定に隆景が従軍し筑前国を与えられた際は、「御奉行衆」の一人として博多の復興や名島城城下町の整備を指揮した。

天正16年(1588年)7月、豊臣政権に臣従するために毛利輝元、小早川隆景、吉川広家が揃って上洛した際に、春忠も隆景に従って上洛した。同年9月5日、豊臣秀長の招きにより、輝元が隆景や広家らを従えて大和郡山城を訪れると、安国寺恵瓊細川藤孝、黒田孝高、大谷吉継も同席した盛大な饗宴が開かれ、毛利氏重臣の福原元俊、口羽春良、渡辺長、小早川氏重臣の春忠、吉川氏重臣の今田経高も末席の縁側に陪席を許された[24]

慶長2年(1597年)6月12日に隆景が死去すると、毛利氏家臣団に編入された。

慶長4年(1599年)、毛利輝元が福原広俊を徳川家康のもとに派遣して嫡男・松寿丸(後の毛利秀就)着袴の儀を依頼し、4月13日には家康の承諾を得たため、準備を整えた松寿丸は8月初旬に大坂へ向けて出発したが、その途中に備後国三原に立ち寄り、春忠の屋敷に宿泊して多大な饗宴を受けている[25]

慶長6年(1601年)、毛利氏家臣団として編入されて以降の毛利氏譜代の家臣達との軋轢により、嫡男の景貞と共に出奔した。その後の消息は不明だが、「長陽従臣略系」に拠ると伊予国加藤嘉明に仕えて、同地で死去したとされる。

嫡男・景貞は大阪で死去し、その子・元景の時に毛利家家臣に服したが、その子・就相の時に断絶した。次男・宗右衛門は三原に土着して、江戸時代には角屋姓を名乗って商人となった。子孫には長府藩士となった者、浅野氏に召し抱えられ、広島藩士となった者がいる。

関連作品

脚注

注釈

  1. ^ 朝山日乗の書状の宛名に記された人物は以下の通り。元就様(毛利元就)隆景(小早川隆景)元春(吉川元春)輝元(毛利輝元)、福左(福原左近允貞俊)、口刑(口羽刑部大輔通良)、桂左(桂左衛門大夫就宣)、熊兵(熊谷兵庫頭信直)児三右(児玉三郎右衛門尉元良)、井遠(井上遠江守)、井但(井上但馬守就重)天紀(天野紀伊守隆重)井又(井上又右衛門尉春忠)、山越(山県越前守就次)。

出典

  1. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 157.
  2. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 158.
  3. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 203.
  4. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 223.
  5. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 398.
  6. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 525.
  7. ^ a b c d 毛利元就卿伝 1984, p. 421.
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 451.
  9. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 452.
  10. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 435.
  11. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 458.
  12. ^ 『益田家文書』第295号、永禄12年(1569年)8月19日付け、(朝山)日乗書状。
  13. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 565.
  14. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 606.
  15. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 5–6.
  16. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 6.
  17. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 6–7.
  18. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 136.
  19. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 85.
  20. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 86.
  21. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 89.
  22. ^ 『閥閲録』巻11「浦図書」50号、天正4年比定10月15日付、小早川左衛門佐(隆景)殿宛て足利義昭判物。
  23. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 298.
  24. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 403.
  25. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 566.

参考文献