宿善

宿善(しゅくぜん)とは、宿世の善根の意味。即ち過去前生に植えたる善根のこと。宿因、宿縁、宿福なども同一の意味で使われることがある。

 「宿」は、「宿世」のことで、宿昔または前世・過去世の意。「」は、善業の意。つまり「宿善」とは、過去世に行った善業、または生れる前の過去世から、今までに積み重ねた善根をさすこと。

特に浄土真宗において宿善は前世の善根に限らず、過去世から獲信以前のすべての善根のこといい[1]、聞法の因縁、獲信(信受)の因縁となるすべての善をいう[2]

各宗派で宿善について論じられるが、浄土教、特に浄土真宗では宿善が重要視されており、宿善論として今も尚活発に議論されている。

なお「宿善」は、「宿世の善根」であり、「宿善」という単語の有無は問題ではなく、仏教上「宿世の善根」にどれほど重要性があるのかが、論議されている。


経典上の根拠

宿世の善根(宿善)について教えた経典上の根拠は、以下のものがあり、経文はどれも「人々が過去世において善行の種をまいたからこそ、現世で仏法を聞くなどの機会を得ることができた」といった意である。[2]


長阿含第九十上経
四輪法とは、一には中国に住し、二には善友に近づき、三には自ら謹慎し、四には宿に善本を植えるなり[注 1]
法華経第二信解品
諸の衆生の宿世の善根に従い、又成熟未成熟の者を知り、種種に量し分別し、知り已りて一乗道に於て宜きに陥って三を説く
大無量寿経下巻
若し人善本なければ、此の経を聞くことを得ず
平等覚経巻四
善男善女人ありて無量清浄仏の声を聞き、慈心歓喜して一時に踊躍し、心意清浄にして衣毛為めに起ち抜出する者は、皆前世宿命に仏道を作せるなり
円覚経
此経所説の法門を受持信解する衆生は已に曽て百千万億恒河沙の諸仏及び大菩薩に供養して'衆の徳本を植えしなり
大積経巻百十六
是くの如きの深の般若波羅密中に能く信楽心ありて疑惑なき者は、是の男子善女人は過去の諸仏に於て久しく已に修し諸の根を植えしなり


浄土教以外の宗派

浄土教では宿善論が多く議論されているが、浄土教以外の宗派でも宿善について論じられている。今生で仏法を聞く条件だけでなく、成仏する条件として宿善を重んじる宗派もある[3]


天台智顗『維摩経玄疏』
宿善は、深厚にして自然に開発す
天台宗真迢『眞迢上人法語』
まれにも戒法をもちたまへる人はめでたき宿善なり。うらやましき事なり もっとも随喜し讃歎し供養すべし
真言宗宥快『宗義決擇集第十四』
真言の行者は宿善に依りて成仏すと云う事経軌並に祖師の解釋一同なり
法相宗貞慶『明要抄』
若し宿善に非ざれば、何ぞ能く此くの如くならん。定めて知る、他生に必ず此の法を聞かん
曹洞宗道元『正法眼蔵』
もし宿善なきものは一生二生乃至無量生を経歴すへども袈裟をみるべからず
日蓮宗日蓮『観心本尊抄』
この故にその身を荘厳して、所説をして一心に信受せしむ。宿善を熟脱する故に、熟脱の教主は必ずこれ色相荘厳の形貌なり


浄土真宗の宿善論

唯円[4]歎異抄』、覚如口伝鈔』・『改邪鈔』、蓮如『正信偈大意』・『御文』・『蓮如上人御一代記聞書』、聖覚法印『唯信鈔』・『安心決定鈔』[5]など浄土真宗の様々な聖教に見られ、深く考察されている。

宿善の言葉の意味

聖道他宗では、成仏するための善として自分のやった善行を宿善と理解しますが、浄土仏教では自己のやった善が間に合って往生するわけではなく、他力によるため、宿善の意味にも違いがでてきます。

「宿善」の「宿」とは宿昔のことで、一世、二世、あるいは多世の昔のことで、過去世の善を指して宿善という。過去世だけではなく、たとえ今生であっても、獲信までのすべての善を宿善という。

「宿善」には宿因、宿縁、宿習、宿福といった呼び名があるが、親鸞、蓮如は、これらの言葉をすべて同じ意味として使っており、意味に違いはない。

宿善は、自己の修めた善根のみを意味するように思われるが、それに限らない。阿弥陀仏の本願にあい信受奉行することを得し因縁はすべて宿善である。

宿因や宿縁が言葉通りの意味ならば、因や結果を引き起こす直接的原因であり、縁は結果を得るための間接的な条件であるがその意味ではなく、因も縁も「由縁」という程の意味である。[6]

つまり宿善(宿因・宿縁)とは、他力信心を得るまでのあらゆる因縁のことをいい、因と縁が明確に区別されるわけではない。

そのため信心を因とし宿縁を縁として、信心獲得されるといった因縁の関係があるというわけではない。

ただし宿善を言葉通りに宿因と宿縁を区別するなら、次のように解せられる。

宿因は、衆生が過去にまいた種のことである。諸善万行や、自力の念仏といったあらゆる善行である。

宿縁は、、阿弥陀仏のご念力で結ばさせられた仏縁をいう。仏の方から衆生に与える縁である。

宿縁には順縁と逆縁があるとされる。たとえば今、仏法を聞き続けられる環境にあることを順縁である。仏法を疑ったり誹謗しながらも仏法との縁があることは逆縁である。[7]

なお「宿習」は過去世にいくども修習した善という意味なので宿善のこと、「宿福」は、福が善という意味なので宿善のことである。


浄信院道穏による宿善の分類

空華三師の一人、堺空華の祖と言われる道穏師は、まず宿善は二つに分類され、「世間の結縁」と「出世の因縁」とがある。[8]

「世間の結縁」とは、仏が父母妻子眷属となり、或いは敵味方などになり、または仮に神となってあらわれ、仏法と因縁をもたせることをいう。

「出世の結縁」は、さらに「遠因縁」と「近因縁」に分けられる。

「遠因縁」は、仏塔をつくって合掌礼拝したり小さい諸善の実行から、自力聖道門の厳しい修行をする善行のことである。

「近因縁」は、阿弥陀仏の極楽浄土を念じて、阿弥陀仏の十九願の諸善万行を行うことや、阿弥陀仏の二十願の自力の念仏等の阿弥陀仏の十八願に入る因縁となる善行のことである。三願転入の意である。

聖道諸善の遠因縁に簡んで十九願や二十願の善に近因縁と名付けられている。

汎爾、係念の宿善

宿善を宿因と宿縁で分けて考える場合、宿因は過去に作ってきた善であり、さらに2つに分けられる。

「汎爾の宿善」と「係念の宿善」である。

浄土教鎮西派で用いられる宿善の分類であるが、真宗にも借りて分類するならば、「汎爾の宿善」と「係念の宿善」に分けられるということである。[9]

汎爾の宿善は、過去に於て、ひろくおおまかにやってきた世俗的な善業をいい、浄土往生を願って阿弥陀仏に心がかかっていない諸善万行である。

係念の宿善は、念が係るということで、西方浄土に往生したいと阿弥陀仏に心を係けてやる諸善や念仏のこと。[10]

汎爾の宿善と係念の宿善の違いは、阿弥陀仏に心をかけているか、否かであり、汎爾の宿善がなければ阿弥陀仏の本願を聞き求めることができず、係念の宿善がなければ第二十願の真門をひらくことはできないのである。[11]

宿善の本質

宿善は、獲信までのすべての善根であり、具体的には宿善は、善本(善根)、持戒、見仏、供仏、聞法修行、発菩提心、修善、修復などである。

聞法だけが宿善の物体ではなく、見仏、供仏、修繕も物体である。

ここで問題になるのが、宿善の本質は、自力か他力か、ということである。[12]

前提として浄土真宗では、一切衆生(すべての人)は、曽無一善、罪悪深重、地獄一定の凡夫である、とされる。

この前提をもとに、宿善の本質について様々な説が考えられてきた。

宿善他力説

曽無一善の凡夫に、往生の資助になるような善ができるはずがない。

そうであるから善根がない者たちの救済は、全く阿弥陀仏の独力によるのだから、絶対他力である。

この前提をもとに衆生に宿善を説くならば、獲信の因縁となる宿善は阿弥陀仏によって生起させられたと考えることは当然の帰結である。

そこで私たちの獲信の因縁となるものは全て他力によるとする宿善他力説があらわれた。

しかし宿善他力説ならば、すべて一律に救われなければならないが、実際には衆生の往生に己今当(過去、現在、未来)の区別があり、往生には遅速がある。

差が出る原因は、一人ひとりの行う善がみんな異なるが原因であると考えるべきであり、宿善は自力であると主張された。

当相自力体他力説

それに対して、宿善の当相は自力だが、体は他力であるという説が現れた。

これは信前には自力にしか思えないが、獲信からみたら如来のお育てに合っていたと反省し喜ぶものだとする。

さらに論調はすすみ絶対他力を強調し、「当相自力」もいらずとする、「純粋な宿善他力説」が登場する。[13]

宿善は、あくまで獲信者の獲信の立場にたっての反省であり、衆生の往生に遅速があることを問題にすることは如来への批判であり問題にすべきではない、と説明する。

しかしそもそも獲信の立場にたった際に反省するのは当然のことであり、当然のことを強調しているだけで、宿善の遅速に対して何も解決していない。無宿善往生を免れない[14]、という反論があがる。

宿善自力説

やはり宿善の体は自力であるという宿善自力説を検討しなければならない。

往生の遅速の問題については、解決できたがこの問題点は、宿善が自力なら衆生が善のできる者だと認めることになるのではないか。それでは曽無一善の凡夫という教えに反してしまう。

ただし宿善自力説も、宿善が他力信心の因になると言っているわけではない。獲得の因縁になるというのは、阿弥陀仏の光明によって機が調熟されるということである。

宿善捨てもの説

そこで鮮妙師の宿善捨てもの説が登場する。

これは実地に善をやらせることでうぬぼれ強い凡夫に「自力無効を知らせるため」の方便の善が宿善であり、自力の善根が阿弥陀仏の超熟の光明の働きで宿善となるということである。

これに対しては、獲信の因縁となる善が自力ならば、結局は難行道と同じく、宿善のための廃悪宿善の苦行が必要となるのではないか、と疑問が呈されている。

厳しく修善を勧めをするのは、阿弥陀仏の十九願から当然であると反論される。三願転入の必然説を参照にされたい。

上記4つの説は、宿善他力説(当相自力体他力説も含む)、宿善自力説(宿善捨てもの説を含む)の2つにまとめられる。[15]

しかし自力を全く含まない純粋な宿善他力説は、唯一自力を含めない考え方であるため、宿善他力説とその他3つの切に大きく分けられる。

学匠の分類

宿善の本質について、学匠方を分類すると以下のとおりである。

【宿善他力説】

桐谷順忍
獲信以前に宿善についていうべきではなく、獲信者が獲信の原点に立って、この信心をいただいたのには、あの因縁もあり、この因縁もあったのだと反省するもの
大江淳誠
稲城選恵
深川倫雄

自力を全く排除した考え方は、桐谷順忍から主張されたもので、現在の本願寺の主流的な考え方とされる。


以下は、伝統的に宿善に自力を含めた主張をする学匠を列記する。

【当分自力体他力説】

行照
いまだ入信せない者にとっては自力だと思っているが、獲信者の立場からいえば、宿善そのものは如来の調熟の光明に外ならない。
月珠
衆生の修善をもって仏よりこれを言えば、調機の方便(調熟光明によってこれを育てられる)、衆生よりこれをいえば聞名の宿縁とするものであるから、宿善は他力を根拠とするのは動かし得ないものである。
桐谷印順
大原性実

【宿善自力説】

明教院僧鎔
前は自力念仏(二十の願)、今は諸善万行(十九の願)、これを宿善として多生をふみめぐりて、つひに弘願真宗の他力念仏に入る経名をきくと云ひ、正法をきくともとけり。
快楽院柔遠
云ふ所の宿縁とは、若し昔に在りては自力善根なり、然るに今よりして之を言は、他力ならざるもの有ること無し
浄信院道穏
今私に自力諸善を宿善とするものを案ずるに、自力を他力の因とするといふに非ず、唯これ機を調熟するのみ、謂く多劫に自力諸善を修して其の機をととのへ、以て可信の機既に成熟するときは自力諸善の法を捨て、能く他力の法を信ずるに堪えたり
岡村周薩
宿善はかつて自ら修した所の善なるが故に自力所作のなりとすべきである。然れども既に弘願他力に歸入して既往を顧みるときは、宿世に自らを作したるは、これ如来の調熟の光明力に由るものにして、古人が淑氣、黄鳥を催すと云はれる風情である

【宿善捨てもの説】

専精院鮮妙
宿善の当体は自力の善なり、中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。(中略)然れば宿善の体は自力なり、自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて却って酒を止めさすが如く、密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、酒を勧むるは酒を止めさするため、今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、之を宿善という。[14]
普賢大円
印順の如き他力説は獲信に遅速あることの説示に不十分である。けだし如来の救済は絶対他力でありながら已今当の区別があるのは宿善自力と言わねばならない。

宿善往生と念仏往生

宿善往生」とは、「念仏往生」に対す教義概念。信心獲得は宿善の開発に由る[16]とし、信心獲得の因縁となるべき善業を宿善という。

仏説無量寿経』巻下に、

「もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てる者、いまし正法を聞くことを獲。むかし、さらに世尊を見たてまつるもの、すなわち能くこの事を信ぜん。謙敬して聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜せん。慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信じ難し。宿世に諸仏を見たてまつれば、楽んでかくのごときの教を聴かん。」

と説かれていることに由来とする。

対して「念仏往生」は、念仏を因とし、浄土往生を果とするが、因果共に阿弥陀仏が念仏の衆生を浄土に往生せしめんという本願(四十八願#第十八願を参照)による他力回向に由るとする。「念仏往生」は、「諸行往生」にも対する語でもある。[17]


注釈

  1. ^ 世親菩薩の『仏性論第二事能品』にはこれを「三輪を具すと雖も、若し宿善なくんば今生に五根則ち具足せず」と解説されている。

脚注

  1. ^ 間野闡門『真宗安心示談 第1編』法蔵館、明45.3、20頁。 「若し細密に義をいえば今生における信前の聞法は若しこれを獲信の立場より回顧みればたとえ今生というも、過去位になる」
  2. ^ a b 岡村周薩『真宗大辞典 卷2』真宗大辞典刊行会、昭11至12、1001頁。 
  3. ^ 望月信亨 著, 塚本善隆 増訂『望月仏教大辞典 第3巻 増訂版』世界聖典刊行協会〈第3巻 増訂版〉、1954年、2444-2445頁。 
  4. ^ 『歎異抄』の著者に関しては、諸説ある。現在では、唯円が作者とするのが定説である。
  5. ^ 『安心決定鈔』…作者について定説なし。浄土宗西山派の流れをくむ人物によるものと推察される。
  6. ^ 『御文章講話author=杉紫朗』興教書院、昭和8、202頁。 
  7. ^ 深励『教行信証講義 : 真宗 第2編』興教書院〈真宗 第2編〉、明28-29、47頁。 
  8. ^ 真宗叢書編輯所 編『真宗叢書 第2巻(本典一渧録)』臨川書店、1978年11月、126頁。 
  9. ^ 中島覚亮『真宗教義大観』法蔵館、大正13、47頁。 
  10. ^ 釈円行『信仰の因縁を結びて』光奎社、昭和2、188頁。 
  11. ^ 山辺習学, 赤沼智善 著『教行信証講義 第3巻』第一書房〈第三巻〉、昭和16、1406頁。 
  12. ^ 龍谷大学『真宗要論』百華苑〈第3版〉、1955年、111頁。 
  13. ^ 桐渓順忍『教行信証に聞く 別巻』教育新潮社〈別巻〉、1955年、111頁。 
  14. ^ a b 真宗叢書編輯所 編『真宗叢書 第2巻(専精院鮮妙)』臨川書店、1978年11月、126頁。 
  15. ^ 桐渓順忍『真救済の論理 : 米寿記念出版』教育新潮社、1982年7月、387頁。 
  16. ^ 『真宗辞典』P.373「宿善往生」を参照。
  17. ^ 『真宗辞典』P.615「念仏往生」を参照。

参考文献

  • 河野法雲、雲山龍珠 監修『真宗辞典』(新装版)法藏館、1994年。ISBN 4-8318-7012-9。 
  • 多屋頼俊、横超慧日・舟橋一哉 編『仏教学辞典』(新版)法藏館、1995年。ISBN 4-8318-7009-9。 
  • 表示
  • 編集