建部政醇

 
凡例
建部政醇
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 寛政7年11月14日(1795年12月2日
死没 明治8年(1875年1月6日
改名 鶴太郎、政醇、聖岡(号)
墓所 京都市北区紫野の大徳寺芳春院
官位 従五位下内匠頭
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家斉家慶
播磨林田藩
氏族 建部氏
父母 父:建部政賢、母:真田信安の娘
兄弟 光平政醇、政儀、八重、松平康任養女ら
正室:松平信明の娘・
政和、坪内定益、土井利教、建部揆、建部秀隆正室、道子(小栗忠順室)、朝倉某室、彦坂重遠室、はつ子
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建部 政醇(たけべ まさあつ)は、江戸時代後期の大名播磨国林田藩の第8代藩主。官位従五位下内匠頭

生涯

第7代藩主・建部政賢の四男として誕生した。母は真田信安の娘(側室の子との説もある)。幼名は鶴太郎。

文化9年(1812年)11月22日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月16日、従五位下・内匠頭に叙任する。文政13年(1830年)3月15日、大番頭に就任する。天保12年(1841年)9月20日、奏者番に就任する。弘化3年(1846年)、辞任する。清水浜臣に師事して国学を学び、石野充蔵を招聘して藩士子弟の教育化に努めた。藩医・辻元崧庵天保8年(1837年)、医学館講書となり、弘化4年(1847年)には将軍の侍医となった。

嘉永2年(1849年)2月8日、長男の政和に家督を譲って隠居し、聖岡と号した。明治8年(1875年)、81歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。

系譜

  • 父:建部政賢(1747年 - 1818年)
  • 母:真田信安の娘
  • 正室:庸 - 松平信明の娘
  • 生母不明の子女
    • 長男:建部政和(1833年 - 1863年)
    • 次男:坪内定益
    • 三男:土井利教(1847年 - 1872年) - 土井利善の養子
    • 四男:建部揆
    • 女子:建部秀隆正室
    • 女子:道子 - 小栗忠順正室
    • 女子:朝倉某室
    • 女子:彦坂重遠室
    • 女子:はつ子 - 蜷川親賢正室

脚注

関連人物

建部氏林田藩8代藩主 (1812年 - 1849年)