春日与市

春日 与市(かすが よいち、1835年4月26日天保6年3月29日) - 1900年明治33年)4月29日)は、日本政治家長野県会議員(第1回県議選~第4回県議選)。下高井教育会長[1]

信濃国高井郡佐野村(現在の長野県下高井郡山ノ内町)出身。弘化4年(1847年)の善光寺地震で崩壊したままになっていた信濃国高井郡佐野の箱石堰を、父春日与右衛門ら有志17名による角間川上流から夜間瀬川約12キロに及ぶ揚堰・引き水工事である屏風堰の開削を松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造[2]、文久3年(1863年)10月、北原・山崎両地区の荒廃地、三十四町歩(102000坪)に水を引き入れ荒れ地を開田し美田とした[3]明治31年1898年)5月、村人は屏風堰建造の恩に報いるため「開墾遺沢春日与市翁之碑」を佐野の佐久間象山公園に建立。題字は松代藩10代藩主真田幸民伯爵の御字[2]

経歴

  • 文久2年(1862年)父春日与右衛門 と有志による角間川上流から夜間瀬川、約12キロに及ぶ揚堰・引き水工事である屏風堰建造着手。
  • 文久3年(1863年)10月 屏風堰を松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造。荒廃地、三十四町歩(102000坪)を開田し美田とした[3]
  • 明治12年(1879年)2月 長野県第一回県議選。初代県会議員に当選。[4]
  • 明治14年(1881年)2月 長野県第二回県議選。二期目の県会議員に当選。
  • 明治15年(1882年)11月 長野県第三回県議選。三期目の県会議員に当選。
  • 明治17年(1884年)7月 長野県第四回県議選。四期目の県会議員に当選。
  • 明治31年(1898年)5月「開墾遺沢春日与市翁之碑」が佐野の佐久間象山公園に建立され題字は信濃守、真田松代藩十代藩主真田幸民伯爵の御字[2]

親族・家系

脚注

  1. ^ 『長野県姓氏歴史人物大辞典』
  2. ^ a b c d e f g 『広報ほくしん9号』
  3. ^ a b c d 『春日弘氏追懐録』
  4. ^ 『長野県の選挙』
  5. ^ 『おくしなの人物風土記』
  6. ^ 『地域を築いた人びと~中野・山ノ内人物風土記~』
  7. ^ 『山本四代画集~山本凌亭・山本〔ケイ〕田・山本秀麿・山本嘉歳~』
  8. ^ 『春日弘氏追懐録』

参考文献

  • 住友金属工業編集『春日弘氏追懐録』財団法人日本陸上競技連盟協賛、1974年3月発行。
  • 内田恒雄『おくしなの人物風土記』北信ローカル社、1976年4月16日発行。
  • 『長野県姓氏歴史人物大辞典』角川書店、1996年11月8日初版発行。
  • 田川光雄『地域を築いた人びと~中野・山ノ内人物風土記~』北信ローカル社、1986年11月21日発行。
  • 執筆、田中毅、監修、法政大学史学会評議員湯本軍一『広報ほくしん9号』北信農業共済組合、平成14年1月12日発行。
  • 『長野県の選挙』信濃毎日新聞社、平成3年3月30日発行。
  • 山本凌亭『山本四代画集~山本凌亭・山本〔ケイ〕田・山本秀麿・山本嘉歳~』竹内要出版、1973年8月発行。

関連項目

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