有馬洪
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名前 | ||||||
カタカナ | アリマ コウ[1] | |||||
ラテン文字 | ARIMA Ko | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1917年8月22日[1][2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | HB | |||||
ユース | ||||||
旧制浦和高校 | ||||||
東京帝国大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
三共 | ||||||
代表歴2 | ||||||
1951 | 日本 | 3 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1947-1954 | 東京大学ア式蹴球部 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2014年7月19日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本の薬学研究者、経営者である。また、サッカー選手としてもプレーし、日本代表として1951年アジア競技大会など国際Aマッチ3試合に出場した。名前の読みを「ひろし」とする資料もある[3]。
経歴
1941年3月、東京帝国大学医学部薬学科を卒業[2]。
1947年3月、三共(現:第一三共)に入社[2]。1969年12月に同社醗酵研究所の所長に就任[2]。
1972年5月より同社取締役[2]、1978年6月より同社常務取締役[2]、1982年6月より同社監査役[2] をそれぞれ歴任した。なお、1990年を以て同社監査役を退任した[2]。
サッカー選手として
東京帝国大学在学中はア式蹴球部に所属し、ハーフバックとしてプレー。
第二次世界大戦後の1949年に東大LB(ア式蹴球部の現役選手、OBで構成されたチーム)の一員として第29回全日本サッカー選手権大会(後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
1951年に33歳で日本代表に選出。同年3月に開催された1951年アジア競技大会で3試合にフル出場。同年末に行われたスウェーデンのヘルシンボリIFとの親善試合にも出場した。
また、1947年から1954年まで東京大学運動会ア式蹴球部の監督を務め、就任2年目の1948年に関東大学サッカーリーグ戦優勝に導いた。
所属クラブ
- 東京高等師範学校附属中学校
- 旧制浦和高等学校
- 東京帝国大学/東大LB
- 三共サッカー部
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1951)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1951 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
出場
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1951年03月07日 | ニューデリー | イラン | △0-0(延長) | 二宮洋一 | アジア大会 | |
2. | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 | ||
3. | 1951年03月09日 | ニューデリー | アフガニスタン | ○2-0 | アジア大会 |
指導歴
- 1947年-1954年 東京大学運動会ア式蹴球部
出典
外部リンク
- 有馬洪 - National-Football-Teams.com (英語)
- 有馬洪 - WorldFootball.net (英語)
- 東大ア式蹴球部、東大LB会の歴史
- HBのポジションと有馬、宮田の存在
日本代表 - 1951年アジア競技大会 サッカー競技 | ||
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