林亜亮
林 亜亮(日本語読み:りん ありょう、生年不詳-1947年)、別名・胡鴻洲は、シンガポールの共産主義者で、マラヤ共産党シンガポール地区委員の1人。日本軍占領期間中、マラヤ人民抗日軍のメンバーとして活動し、日本軍に逮捕され死刑を宣告されるが生き残り、英雄視された。1946年2月にデモを煽動して逮捕され服役。1947年8月の釈放直後に死亡し、マラヤ共産党により盛大な葬儀が行われた。[1]
生い立ち
戦時中
- 1940年に留学先から戻り、シンガポール陥落まで『星洲日報(中国語版)』に勤務[3]。
- 日本軍占領期間は、マラヤ人民抗日軍の地下活動家となる[3]。
- [いつ?]日本軍に逮捕される[4]。
- [いつ?]日本軍に死刑を宣告された[5]。
- 絞首刑執行直前の1944年12月に、日本軍が降伏して釈放された[5]。[要検証 – ノート]
戦後
- 戦後、『星洲日報』に復帰[6]。
- 1946年2月15日、シンガポール陥落の恥辱を記念する共産党の集会で、警察の許可を得ずに南京街[7]、ブラスバサー通り(英語版)および大世界(英語版)でデモを煽動し、集会場に乗り込んだ警察官が参加者と衝突[8]。林は負傷、逮捕され、不法集会煽動、安寧妨害の容疑で懲役2年の刑を宣告された[8]。
- 1947年8月25日に釈放[2]。釈放時には数千人が出迎え、林は花束を贈られて感謝の演説をした[2]。
- その9日後、病院で注射を受けた後に死亡[2]。共産党は当局が林を殺害した、と非難し、林に「英雄」の称号を贈った[2]。
- 1947年8月28日[要検証 – ノート]にクロス街(英語版)の故人の家でマラヤ共産党によって葬儀が盛大に執り行われ、約1万人が参列[2]。棺は「我々の林亜亮を殺したのは誰か。我々は覚えている」と書かれた大きな赤旗で覆われていた[2]。遺骸はブキテマ墓地(英語版)に葬られた[2]。
脚注
- ^ この記事の主な出典は、リー (1987, p. 132)。
- ^ a b c d e f g h リー 1987, p. 133.
- ^ a b リー 1987, p. 134.
- ^ リー 1987, p. 132,134.
- ^ a b リー 1987, p. 132.
- ^ リー (1987, p. 133)。このときの同僚にリー・クーンチョイがいた(同)。「当時『星洲日報』には左翼がうようよしていた。」(同)
- ^ Google Maps – Nankin Street, Singapore (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月8日閲覧。
- ^ a b リー 1987, pp. 132–133.
参考文献
- リー, クーンチョイ 著、花野敏彦 訳『南洋華人‐国を求めて』サイマル出版会、1987年。ISBN 4377307339。