片岡健治
基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | 栃木県 |
生年月日 | (1937-03-18) 1937年3月18日(87歳) |
身長 体重 | 174 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1960年 |
最終出場 | 1961年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は、栃木県[1]出身の元プロ野球選手。
経歴
大田原高校を経て、社会人野球のいすゞ自動車で活躍し、1959年に社会人・大学生混成の第3回アジア野球選手権大会全日本代表に選出された[2]。同社を経て1960年に中日ドラゴンズへ入団[1]。
1年目から新人王を期待されたが、キャンプで風邪をひき、さらに無理がたたり肩を痛める。その後、4月17日の国鉄スワローズ戦で1試合投げたが、7月に投げられない申し訳なさから任意引退を申し出た。その後再び中日と再契約したものの、翌1961年に引退[3]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1960 | 中日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | .000 | 10 | 2.1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.29 |
1961 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | .000 | 14 | 3.0 | 2 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 3 | 9.00 | 1.67 | |
通算:2年 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | .000 | 24 | 5.1 | 5 | 1 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 3 | 4.50 | 1.50 |
背番号
- 11 (1960年 - 1961年)
脚注
- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、145ページ
- ^ 全日本チームは大沢貞義含む社会人8名・学生9名で構成され、辻猛監督、大沢貞義助監督兼外野手(熊谷組)、堀本律雄(日本通運)、五代友和、森滝義巳らの投手陣にくわえ、古田昌幸(熊谷組)、高林恒夫、浜中祥和ら立教大関係者を軸に、宮原実捕手(日本鋼管)、田中徹雄(日本石油)、木次文夫、渡海昇二、高橋捷郎ら早慶関係者の野手陣を中心に編成。総勢9人の大学生中7人を東京六大学勢が占める中、唯一の関西六大学勢である関学大の斎藤圭二と共に唯一の東都勢から専修大の坂井勝二投手が選出され、片岡健治投手(いすゞ自動車)らと全日本チームの優勝に貢献した。
- ^ 「志願の任意引退」週刊ベースボール別冊 よみがえる1958-69年のプロ野球 [Part.3] 1960年編 三原魔術で大洋日本一 ベースボール・マガジン社.2023年.P64
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 片岡健治 - NPB.jp 日本野球機構
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