近衛豊子
近衛 豊子(このえ とよこ、1823年2月1日(文政5年12月21日) - 1853年4月2日(嘉永6年2月24日)[1])は、幕末の女性。紀州藩第12代藩主・徳川斉彊の正室。父は広幡基豊。養父は近衛忠煕。院号は観如院。
生涯
内大臣・広幡基豊の娘として生まれ、後に関白・近衛忠煕の養女となる。1839年(天保10年)、紀州藩第12代藩主・徳川斉彊の正室となるも忠煕との間に子供は生まれなかった[2]。
1853年(嘉永6年)、死去。享年32。墓所は和歌山県海南市にある長保寺[3]。
脚注
- ^ 『南紀徳川史 第2冊』(南紀徳川史刊行会、1930年)p.681-682
- ^ “徳川(德川)氏(御三家・紀伊徳川家)”. 世界帝王辞典. 2023年3月11日閲覧。
- ^ 「和歌山県史」(1977年、和歌山県、p635)
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