逸見祥仙
凡例 逸見祥仙 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明[1] |
死没 | 天文7年10月7日(1538年10月29日[2]) |
官位 | 山城守(受領名)[2]、左京亮(官途名) |
主君 | 足利義明 |
氏族 | 逸見氏 |
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逸見 祥仙(へんみ しょうせん)は、戦国時代の武将。小弓公方家の重臣[2]。実名は忠次(「清和源氏逸見系図」)[2]。
略歴
甲斐武田氏庶流の一族とも[1]、真里谷氏の一族ともいわれるが、詳しい血縁関係などはわかっていない。官途名は左京亮であり、足利義明から山城守の受領名を与えられる[2]。甲斐の武田信虎と足利義明との間を媒介して両者を結びつける[2]。
天文7年(1538年)、第一次国府台合戦において義明と共に出陣して戦闘に参加したが、最後は義明と共に戦死した[1]。
脚注
- ^ a b c 阿部・西村 1990, p. 681.
- ^ a b c d e f 滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」『中世房総』6号、1992年。