金田頼次

 
凡例
金田 頼次
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 寿永2年(1182年)以降
別名 常次、頼常、金田大夫、小大夫、小太郎[1]
氏族 平常澄
兄弟 伊西常景印東常茂匝瑳常成佐是円阿大椎惟常埴生常益天羽秀常上総広常、相馬常清、臼井親常、時田為常、頼次[2]
三浦義明の娘[1]
康常[3]
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金田 頼次(かねだ よりつぐ)は、平安時代後期の武士房総平氏の一族で、上総国長柄郡金田郷(現・千葉県長生村金田)の領主[4]

略歴

治承4年(1180年)8月、相模国三浦郡の武士・三浦氏伊豆国で挙兵した源頼朝軍に加わるために出陣したが、頼朝が石橋山の戦いで敗走したため三浦郡へと引き返した。『源平盛衰記』によれば頼次の妻は三浦義明の娘だったらしく、このとき頼次は70騎ほどを率いて三浦勢に合流している。平家方らが三浦氏の籠もる衣笠城を攻めるとの風聞が立つと、頼次は和田義盛とともに城の西木戸に布陣して戦ったが、連戦で疲弊していた三浦勢は城から敗走することとなった(衣笠城合戦[5][1]

寿永2年(1182年)12月、兄の上総広常が頼朝の命で謀殺されると頼次も蟄居が命じられた。翌年1月、広常の無実が認められて嫡子の康常への旧領継承が認められたが、頼次は病死した[3][6]

脚注

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出典

  1. ^ a b c 太田 1963, p. 1615.
  2. ^ 『続群書類従』 2013, pp. 37–38.
  3. ^ a b 小笠原 1996, § 寺崎村.
  4. ^ 小笠原 1996, § 金田村.
  5. ^ 『吾妻鏡』 2008, pp. 15–17.
  6. ^ 『吾妻鏡』 2008, pp. 69.

参考文献