高山泰夫
基本情報 | |
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出身地 | 日本 岐阜県 |
生年月日 | (1922-08-23) 1922年8月23日 |
身長 体重 | 171 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1942年 |
初出場 | 1942年 |
最終出場 | 1946年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月23日 - 没年不明)は岐阜県[1]出身のプロ野球選手。
来歴・人物
1939年春の第16回選抜中等学校野球大会に岐阜商業の控え選手として出場し、準優勝を経験。翌1940年春の第17回選抜中等学校野球大会に2年連続で出場。この時の岐阜商業は高山を含め、大島信雄や国枝利通、鳥居兵治、加藤政一など、のちにプロ野球界入りする選手を5人擁するチームで、高山はこの大会も控え選手だったが、重要な場面で3試合に代打として起用されて3打数3安打の活躍を見せた。特に決勝の京都商業戦では両チーム無得点で迎えた8回裏に代打として登場、神田武夫投手から決勝点となるタイムリーヒットを放ち、優勝に貢献した。高山は代打での活躍が評価され、大会の「美技賞」を獲得。
戦前最後のセンバツ大会となった翌1941年春の第18回選抜中等学校野球大会では鳥居兵治や加藤政一、後輩の坂井豊司らと共に出場。高山はレギュラーの一塁手として活躍し、準々決勝では別所昭投手を擁する滝川中学に延長14回の末に勝利して準決勝まで進出(この試合は別所がホームベース上のクロスプレーで左肘を骨折し、三角巾で左腕を吊って延長戦を投げ続けた末に敗れたことから、翌日の大阪毎日新聞に「泣くな別所、センバツの花」と書かれたことで知られる)。準決勝では林安夫投手の一宮中学に敗れて2連覇を逃した。
卒業後、1942年に阪神軍に入団[1]。1年目から18試合に出場したが、1943年に従軍。戦後の1946年に阪神に復帰した。この年は41試合に出場している。1947年は出場無く、退団した[1]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1942 | 阪神 | 18 | 23 | 20 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | -- | 3 | -- | 0 | 7 | -- | .100 | .217 | .100 | .317 |
1943 | 9 | 12 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | -- | .182 | .250 | .455 | .705 | |
1946 | 41 | 87 | 77 | 14 | 21 | 3 | 1 | 1 | 29 | 9 | 1 | 0 | 0 | -- | 10 | -- | 0 | 12 | -- | .273 | .356 | .377 | .733 | |
通算:3年 | 68 | 122 | 108 | 15 | 25 | 3 | 1 | 2 | 36 | 13 | 2 | 0 | 0 | -- | 14 | -- | 0 | 21 | -- | .231 | .320 | .333 | .653 |
背番号
- 25 (1942年 - 1943年)
- 8 (1946年 - 1946年途中)
- 27 (1946年途中 - 1947年)
脚注
- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、327ページ
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 高山泰夫 - NPB.jp 日本野球機構
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