1969年の南海ホークスでは、1969年の南海ホークスの動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、飯田徳治が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
1968年オフに23年間指揮を執った鶴岡一人前監督の勇退を受け、飯田新監督がこの年から就任した。ユニフォームも1959年以来使われた「肩ライン」を廃止し、新たにオレンジ色を追加と一新した。1966年以来の優勝が期待されたが開幕前に前年2位躍進の原動力となった皆川睦雄、三浦清弘などの主力投手がケガで離脱し、打撃陣も野村克也がホームで相手ランナーにタックルされるケガを負い、広瀬叔功やドン・ブレイザーもシーズン途中で故障した。投打の主力が相次いでケガで離脱するとチームはシーズン中盤に球団史上最悪の15連敗を喫し[2]、一気に最下位に転落した。ベテランの故障や不振もあり、この年ルーキーの富田勝などの若手が出場機会を増やしたが経験不足を露呈するなど誤算が続出した。8月以降は立ち直り、西鉄と5位争いを演じるものの最後は最下位でシーズンを終えた。結局、飯田監督はわずか1年で辞任し、主砲の野村が後任の監督に就任した。またブレイザーが引退し、翌年からヘッドコーチに就任した。投手陣は三浦が12勝、2年目の西岡三四郎が10勝をあげたもののチーム防御率3.56はリーグ最下位で、打撃陣も野村、広瀬などの故障でチーム本塁打が85本と落ち込み打線全体で貧打に喘いだ。カード別では、西鉄に15勝10敗1分と勝ち越してかろうじて全球団負け越しこそ免れたが、それまで得意だった阪急、近鉄にそれぞれ9勝16敗1分、9勝17敗と大きく負け越し、両球団のマッチレースをアシストする形となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1969年パシフィック・リーグ順位変動 順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 |
1位 | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 東映 | 3.5 | 近鉄 | 2.5 | 近鉄 | 0.5 | 近鉄 | 0.0 | 近鉄 | 0.5 | 近鉄 | 1.0 | 近鉄 | 2.0 |
3位 | ロッテ | 4.0 | 東映 | 6.0 | 東映 | 8.0 | 東映 | 6.0 | ロッテ | 8.0 | ロッテ | 6.5 | ロッテ | 5.5 |
4位 | 南海 | 6.0 | ロッテ | 7.0 | ロッテ | 8.0 | ロッテ | 8.5 | 東映 | 14.5 | 東映 | 17.0 | 東映 | 19.5 |
5位 | 西鉄 | 南海 | 7.5 | 西鉄 | 9.0 | 西鉄 | 12.0 | 西鉄 | 15.0 | 西鉄 | 20.5 | 西鉄 | 25.0 |
6位 | 近鉄 | 7.5 | 西鉄 | 10.0 | 南海 | 16.5 | 南海 | 18.5 | 南海 | 22.0 | 南海 | 24.0 | 南海 | 26.0 |
オールスターゲーム1969
詳細は「1969年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
選手・スタッフ
南海ホークス 1969 |
---|
監督 | |
---|
コーチ | |
---|
二軍コーチ | |
---|
投手 | |
---|
捕手 | |
---|
内野手 | |
---|
外野手 | |
---|
[3]
表彰選手
ドラフト
詳細は「1969年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈
出典
- ^ “年度別成績 1969年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月22日閲覧。
- ^ 巨人の連敗はストップするか?現存する12球団最多連敗は98年ロッテの18 デイリースポーツ 2017年6月7日
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。
各年の福岡ソフトバンクホークス |
---|
1930年代 | |
---|
1940年代 | |
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |
| この項目は、野球に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球/P野球)。 |